8 教育について

 成人の日において各地の式典において、あまりの騒がしさに、挨拶も出来ず、困惑したり壇上で憤る来賓の姿も報道されています。ある市では市長に妨害した成人に威力業務妨害で告訴したところもありました。我が県においても、市町村によっては、会場では後ろ向きで立ったまま話しをしているグループ、壇上に駆け登ろうとするグループ、また壇上のしたで縄を持ちそれを阻止するために会場に向かって目を光らせている職員や警備の方々、こうした光景が見られました。大人になった瞬間、大人の権威を否定する行為は、もともと権威もなくすべてが平等で横並びの感覚であったのだなと思います。
 数年前、日本青少年研究所が、日本、アメリカ、中国の高校生を対象に規範調査を行った結果 、興味あるデータがあります。一例を上げますと「先生に反抗することは、本人の自由でよい」と答えた者の割合は、日本七十九%、アメリカ十六%、中国十九%、また「親に反抗することは本人の自由でよい」と答えたものは、日本八十五%、アメリカ十六%、中国十五%といかに日本が、権威なき姿が国際的に異常であるかを示しています。
 戦後、日本では、民主主義という表面をとらえ、全ての人は皆等しいと唱えられてきました。しかし、そもそも人には、当然差があるものです。努力の差、生きてきた歴史の差、鍛練の差もあります。その差というものが、平等、人権の名の元に認められず、全てが等しい横並びで権威が消えた世界では、「先生と生徒」・「親と子供」の境界線が喪失した感があります。その結果 、子供も甘え、大人からの鍛練がなされなくなり、また甘やかす大人が実は子供に甘え、子供に迎合する関係になってしまったのであります。大人と子供の境界線が欠落した大人不在の社会は、単なる馴れ合いの社会となり、人が人として育たなくなってしまいました。
 こうした状況のなかで、では一体だれがしつけをしていくのか、誰が社会の基本的ルール、人間関係を子供に教えていくのか、学校が何もかも実力以上に抱え込んでもできないのは明白であります、家庭においてもしつけ、感性、情操の育成さえ学校や塾にゆだねようとしています、地域においても、その実態なるものは、特に都会において、教育力といえたものでありましょうか。しかし悲観論に陥っている余裕はありません、荒れる少年の姿をみるにつけ、行政が一歩進んだ家庭の教育力、大人の教育力の復活に積極的な支援をしていくべきだと思います。
 そこでお聞き致します。
 中央教育審議会でも「これからの家庭教育の在り方」において答申し、教育委員会が、子供の発達段階に応じた家庭教育を多くの大人に学ばせるため、幼稚園や保育所、病院、大学、民間教育機関の連携を図り、子供の発達段階に応じた体系的・総合的な学習の機会を提供する必要があるとしているが、このことについて県教育委員会は、どのように認識し、実際にこの総合的な学習機会を提供してきたか?

 「すこやか家庭教育事業」のなかで「地域子育て相談・セミナー」や「子育てフォーラム」の実施、「家庭教育カウンセラー活用事業」のなかでの家庭教育に関する講演会、家庭教育講座、カウンセラーの派遣、家庭教育資料「育て千葉っ子」の配布といった事業を行っている。

 

 

 とくに、これから親になる青年を対象に意識啓発や子育てに関する学習機会を提供することが必要と答申しているが、成人式等の提供資料のなかに親としての子供の教育に関する資料を与えていくよう市町村に働きかける等、青年に対し、大人の自覚を促し、やがては自分達も親となって子育てをし、その子供もやがて成人していくということを教えるべきではないか。

 家庭の大切さについては、成人式に限らず、さまざまな機会をとらえて啓発していきたい。

 

 また中央教育審議会答申では、家庭教育における父親の役割の重要性にも触れ、家庭教育に関する学習機会の職場での開設や働く父親の姿を子供に見せる機会の提供等、父親の家庭教育への参加を促す施策につき提言している。県教育委員会も関係部門に働きかけ実施すべきと思うがどうか。

 県教育委員会では、父親の家庭教育参加と地域の理解を促進するため、「子育てフォーラム〜父と子の関わりを考える〜」を県下11会場で実施している。また、県立青少年教育施設9カ所において「親子フェスティバル」を週末に実施している。