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こうのとり通信より
これからの地方政治

 
戦後の政治とは、民主主義という言葉を声高に叫び、受益要求だけが常に活発になされ、その結果、政策の膨張、予算歳出の増加が毎年行われてきた。政治家もその受益団体と共に行政に働きかけ、緊密になることによって、選挙を有利に進め、地位を保全し、利権も享受してきた。顕著に現れたのが、建設・土木の分野である。「国土の均衡ある発展」、「県土の均衡ある発展」を叫びながら、あらゆる土地に、箱物、道路が作られて行った。その結果、地方の産業は、お役所だけがお客様という土木業者だけのところも多く生まれた。そうした業者を行政が抱え込み、業者の生き残りの為に、毎年一定量の予算を公共事業にあてがった。   しかし、右上がりの経済成長で、税収も右上がりで、使い道を何処にしようかという時には、旨く行っていたが、経済が低迷し、税収が下降になるや、あっという間に予算は工面出来なくなる。それでも、業者を維持しようと思うなら、景気対策と称して、起債を限りなく行って、借金を次々と重ねていかねばならなくなった。やがて、それは一年の一般予算を超える膨大な起債残高となり、地方行政は、一種の不良債権、破綻懸念先以下となり、国の財政危機をさらに深刻化させものとなった。 政治も、行政も、産業も、この負の遺産をいつまでも、抱きしめて置くのではなく、清算し、新しい新陳代謝を興さねば、不良債権の増殖と同じで、地方も国も、より深刻な負の循環増殖回路にはまってしまう。
先ず、政治は、今までの受益者以外の利権構造に組み込まれていない一般市民の良識ある人々を政治に参加させていかねばならない。しかし、これらの市民的な運動の限界は、それが、地域経済の振興、雇用について、無頓着であるということも考慮に入れねばならない。 これから地域の生き残りを賭けて、地方が産業の振興、雇用の確保、税収の確保に血眼になるとき、単に、公共事業批判、環境批判だけで政治・行政がなりたっていくものではない。
 これからの行政は、地方交付税が絞られ、国の補助金事業も無くなり、お金が無い中でも、行政が民間と組んで、具体的なプロジェクトを掲げ、地域の産業・雇用を推進していかねばならない。これからの地方政治は、情報公開を徹底的に行い、市民の責任ある参加をひろげ、受益者だけの古い利権構造を変えて、利権にたかろうとする勢力が入る余地を皆無とすると同時に、地方に独自財源をとにかく国から持ってきて、また独自に地方債を発行しながら資金を作り、さらに足を運んで民間から融資を受けながら、運営していかねばならない。
こうした大手術を行う政治の過渡期にあって、政治家は、しっかりした信念が必要となる。。これからの政治は、人間の意志、信念、理想、という不動の精神領域を確立してなければ、やっていけない。政治とは何、理想の社会とは何、人間の生き方は何、何を精神価値としてこれからの社会は生きていくのか、その中で政治はどうあらねばならないのか、こういう根源的なものを振り返って進んで行かざる得ない政治がもう一歩手前に来ているように思います。
 この時期、若者が、平然としていてはおかしい、今の政治の根本の問題は、結局、銀行においても、企業においても、政治においても、行政においても、責任をとってやめ、政治・経済を再生しようとしないトップの老人達、つまり「もう数年すれば自分達は何とかなる」という食い逃げの世代の存在に問題は収斂する。
この辞めようとしない指導者の人々の体たらくは、一体何だろうか。戦前・戦後と生き残り、今は、社会のトップの地位を_んで離さない人間の精神の基準を若い人たちはどのように見るのだろうか。公の姿とは程遠い、幼き基準でしか生きれなくなった人々を今の若者は何も感じないのだろうか、今の若者に理想の社会、理想の国家に一身を捧げる熱のある者はいるのだろうか。ガラガラと崩れていく精神の瓦礫と焼け野原の中で、毅然として、そこに咲く鮮明な花を見てみたい。

目  次

地方の行政とは?

これからの地方政治

地方交付税は今まで
通りではない

外形標準課税導入について

景気対策を地方から

変わらない結果平等の
地方自治体

議会の活性化

NHK「地方発 構造改革」
を見て

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